最近、ある人から「偶有性」という言葉を教わりました。
「偶有性」とは、私たちの生そのものが、偶発的なものであり、人生に確実なものは何もないということ。
昨今の情勢では、予測不可能がことが立て続けに起こり、先が見えない状況に不安を覚えている方も少なくないと思いますが、
そもそも、生命を生きる上で、確実なこと、絶対的に保証されているものが、あるのでしょうか。
大きな視点から、私たちが生きていることの大前提を理解する鍵になる言葉に出逢ったので、以下の文章をシェアします。
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茂木健一郎(2015)『生命と偶有性』より
「偶有性」とは、私たちの生が容易には予測できないものであるということ。
確実さと不確実さが入り混じった状態。
現在置かれている状況に、何の必然性もないということである。
たまたま、このような姿をして、このような素質を持ち、このような両親の下に生まれてきた。
他のどの時代の、どの国で生まれてきても良かったはずなのに、偶然に現代の日本に生まれてきた。
そのような「偶有的」な存在として、私たちはこの世に投げ出されている。
この世のすべてが、決して確かなものとはならないこと。
また、自分が今このような状況に置かれているということに、何の絶対的根拠もないということ。
このような「偶有性」の所在は、私たちを不安にさせる。
できれば、将来がどうなるのか、確かな保証が欲しい。
なぜ自分がこのようなかたちでこの世に存在するに至ったのか
その信じるに足る説明が欲しい。
そんな願いは、所詮は虚しい。
なぜならば、私たちの生命そのものが、「偶有性」を本旨としているからだ。
「偶有性」から逃げようとすることは、すなわち、「生命」そのものを否定することに等しいのである。
自分がたまたま置かれた「偶然」の状況を逃れられないものとして受容する。
いわば、「偶然」を「必然」として受け入れる。
そのような、「偶然」から「必然」への命がけの飛躍、すなわち「偶有性」こそが、私たちの生命を育んでくれる。
そのことを、昔の人は「覚悟」と呼んだのではなかったか。
偶有性の海に飛び込め!
そして力の限り、泳いでみよ!
何を、恐れることがあろうか。
生命は、もともと、偶有性の大洋の中で育まれてきたのだから。
何のことはない。
飛び込むといっても、母胎に帰るだけの話だ。
肝心なのは、「偶有性」の正体をしっかりと見きわめることである。
偶有性から目をそらせてきた過去にサヨナラし、私たちの身の回りで現に起きていることを直視する。
それが、現在の日本に漂っている不安を解消する方法なのではないか。
偶有性を見つめよう。
そこには、私たち自身の姿が浮かび上がってくるだろう。
私たちの不安の理由が明らかにされ、希望への道筋が見えるだろう。
私たちのかけがえのない生命と、日々の偶有性と。
生命と偶有性を結びつけることで、私たちはきっと再生できる。
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私たちの人生の一瞬一瞬は、現実と仮想が切り結ぶ現場である。
一つの実際に起こったことのまわりには、たくさんの起こったかもしれないことがまとわりついている。
たった一つの現実の進行は、その周囲に仮想をたくさんひきずり込んでいくことによって偶有性となる。
偶有性とは、一本の現実の意図にたくさんの仮想が織り込まれることによって成立する「生命の糸」である。
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どんな形であろうとも生きるということがそもそも「偶有性」に向き合うことであるということさえ忘れなければ、私たちは人生を楽しむことができる。
偶有性を楽しむということは、一つの事実認識でもあり、また「覚悟」でもある。
茂木健一郎(2015)『生命と偶有性』新潮社 pp.6-10,32,138