京都・クリパルヨガのある暮らし

京都からクリパルヨガを伝えています。米国クリパルセンター公認ヨガ教師 hitomiのブログです。

涙の理由

山の小学校の図書室で

一緒にすごした女の子と

文通をしはじめて、もう4年になる。


今回届いた手紙の差出人は

彼女ではなく、彼女のお母さんからだ。


今年、中学校に入学したはずの彼女が

どうしているのかは、書かれていない。


中学生になったから、部活や試験で忙しくしているのだろうか。


それとも、新しい環境になじめずに

元気をなくしてしまっているのだろうか。


様子が気になる。


お母さんからの手紙には

私が贈った手紙を

彼女は大切に宝物箱に入れていること、

閉校式や学習発表会で

わたしが泣いていた様子を

録画したDVDを彼女が

喜んでみていることが

報告されていたほか

一つ質問が書かれている。


「学習発表会での先生の止まらない涙がとても印象的で忘れられません。

あの涙は、どういう涙だったのか

ぜひ伺いたいです。


先生は、どうしてあんなに泣いていたのですか?」

 

むむむ。

たしかに、4年ほど前、図書館活動支援員として

勤務していた山の小学校の行事で

わたしは、よく泣いていた。


泣くつもりはないのに、

気付くと涙が流れていた。


子どもたちや保護者に

見られないように

割と気を付けていたものの

一度流れはじめた涙は

止めることができずに

涙腺崩壊状態だった。


子どもたちはそんな私の様子を

にやにやしながらじっとみていた。


涙の訳は?と聞かれても分からない。


ただ、わたしのからだが

目の前の光景に反応していたのだ。


子どもたちの心の純粋さに

感動したから?

成長した子どもたちの姿に

親心を感じた?

それとも、わたしがただ涙もろいから?


それらしい理由はつけることは

できても、

真実を言葉に置き換えることはできない。

 

私は物心ついたころから涙もろくて

保育所卒園式からはじまり

各卒業式では校長先生の挨拶あたりから

自分でもなぜこのタイミング?

と思いながら涙が流れていた。


ヨガのトレーニングの時も

「もう泣いているの?、まだ泣いているの?」といわれながら、

わたしはよく泣いていた。


あのときの涙は何だったんだろう。

浄化?感情の解放?


それらしい言葉は浮かんでも、その言葉も充分ではない。

 

かなしいとき

うれしいとき

動したとき。


それ以外にも

涙がながれるときはある。

 

涙の理由を人は知りたがるが

そこに理由はない。


ことばにして説明する必要もない。


が張りつめているときは

涙は流れない。


涙が流れるというのは、

心がゆるんで、とけるような

瞬間に訪れる。


それは意識の上で

コントロールしがたいもので

突然訪れたりもする。


浄化作用もあると聞く。

心の新陳代謝のようなもの。

 

わたしの子ども時代

学校では、人前でないては

いけないような風潮があった気がする。


山のちいさな小学校の

卒業式では、ティシュを箱ごと持ち込んでいる子もいて、

先生も子どもたちも

ほぼ全員が号泣していた。


そんな自由に泣ける環境に

泣くことも笑うことも

同じように尊重されていることに

すばらしいと感じた。


文通をしている彼女にも

涙がでてきたら

理由は考えなくてよいので

泣ける自分をゆるしてあげてほしいと

伝えたい。


そんなことで答えに

なっているだろうか。